自民党総裁選(27日投開票)に立候補している小泉進次郎元環境相(43)=無派閥=が24日、東京都内で麻生太郎副総裁と面会したことが分かった。小泉氏は、上位2人による決選投票に進んだ際の支援を、麻生氏に求めたとみられる。
面会は小泉氏側からの要請で、約30分行われた。9人が立候補している総裁選は、小泉氏を含めた石破茂元幹事長(67)=無派閥=、高市早苗経済安全保障相(63)=無派閥=の三つどもえの混戦状態で、決選投票にもつれることが確実な情勢だ。麻生氏は裏金事件後も唯一派閥の存続を明言している。
小泉陣営の関係者は「距離の近さや遠さに関係なく、あらゆる人に頭を下げて支援をお願いする局面だ」と話しており、小泉氏も決選投票を見据え、支援を求めた模様だ。
小泉進次郎年譜
[編集]- 1981年(昭和56年)4月 – 神奈川県横須賀市で生まれる。
- 1988年(昭和63年)4月 – 関東学院付属の関東学院六浦小学校に入学。
- 2004年(平成16年)3月 – 関東学院大学経済学部経営学科卒業。
- 2005年(平成17年)9月 – コロンビア大学にて修士課程をスタート[7]
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)9月 – 父・小泉純一郎衆議院議員の私設秘書。
- 2008年(平成20年)9月 – 小泉純一郎が政界引退を表明。後継者に指名される。
- 2009年(平成21年)8月 – 第45回衆議院議員総選挙に神奈川11区から出馬し、初当選。
- 2012年(平成24年)12月 – 第46回衆議院議員総選挙に神奈川11区から出馬し、再選。
- 2014年(平成26年)12月 – 第47回衆議院議員総選挙に神奈川11区から出馬し、3選。
- 2017年(平成29年)10月 – 第48回衆議院議員総選挙に神奈川11区から出馬し、4選。
- 2019年(令和元年)8月 – フリーアナウンサーの滝川クリステルとの結婚の予定[43]及び滝川の妊娠を発表。[44]
- 2020年(令和2年)1月 – 第1子男児が誕生[45]。
- 2021年(令和3年)10月-第49回衆議院議員総選挙に神奈川11区から出馬し、5選。
- 2023年(令和5年)11月 – 第2子女児が誕生[46]。
麻生太郎年譜
[編集]- 1940年(昭和15年)9月20日 – 福岡県飯塚市に生まれる。
- 1947年(昭和22年)4月 – 自身専用の学校である麻生塾小学校(現在は閉校)に入学。
- その後、小学3年生のころに上京し、学習院初等科に編入する。
- 1959年(昭和34年)3月 – 学習院高等科卒業。
- 1963年(昭和38年)
- 1966年(昭和41年)
- 1973年(昭和48年)5月 – 麻生セメント株式会社の代表取締役社長(1979年12月まで)。
- 1976年(昭和51年)7月 – モントリオールオリンピックにクレー射撃日本代表として出場。
- 1978年(昭和53年)1月 – 社団法人日本青年会議所の会頭に就任(1978年12月まで)。
- 1979年(昭和54年)10月 – 第35回衆議院議員総選挙に旧福岡2区(現福岡8区)から出馬し初当選。
- 1983年(昭和58年)
- 1985年(昭和60年)12月26日 – 九州工業大学の情報工学部の創設が大蔵省から認可され[20]、飯塚市へ国立大学を誘致する。
- 1986年(昭和61年)7月6日 – 第38回衆議院議員総選挙で返り咲き当選(3期目・134,179票)同区の同じ自民党候補に木曜クラブ新人で後に経世会旗揚げや新党さきがけ結成に参加する三原朝彦。以降第49回衆議院議員総選挙まで11回連続当選。
- 1988年(昭和63年)12月 – 文部政務次官に就任(1989年6月まで)。
- 1990年(平成2年)3月 – 自民党の文教部会長に就任(1990年12月まで)。
- 1991年(平成3年)
- 1月 – 衆議院石炭対策特別委員長に就任(1991年11月まで)。
- 11月 – 衆議院外務委員長に就任(1993年5月まで)。
- 1992年(平成4年)12月 – 党外交部会長(1993年8月まで)。
- 1996年(平成8年)11月 – 経済企画庁長官に就任(1997年9月まで)。
- 1997年(平成9年)9月 – 日本会議国会議員懇談会第2代会長に就任(2003年9月まで)。
- 1999年(平成11年)3月 – 党副幹事長に就任(1999年11月まで)。
- 2001年(平成13年)
- 1月 – 経済財政政策担当大臣、情報通信技術(IT)担当大臣、新千年紀記念行事担当大臣に就任(2001年4月まで)。
- 4月 – 自民党総裁選に初出馬。4月24日投開票。4人中3位(1位は小泉純一郎だった)。
- 4月 – 党政務調査会長(2003年9月まで)。
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)9月 – 国民スポーツ担当大臣を兼任(小泉内閣)。
- 2005年(平成17年)10月 – 外務大臣に就任(小泉内閣)。
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)6月9日 – 自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)の最高顧問に就任。
- 2012年(平成24年)12月26日 – 野田内閣 (第3次改造)総辞職に伴い民主党政権終了、自民党の政権復帰(公明党との連立)を受けて、副総理、財務大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)、デフレ脱却担当大臣に就任(第2次安倍内閣)。
- 2015年(平成27年)5月21日 – 副総理としての連続在任期間が876日となり、林譲治を超え、戦後歴代一位となる[21]。
- 2016年(平成28年)9月9日 – 財務大臣としての連続在任期間が1354日となり、大蔵大臣時も含め、池田勇人を超え、戦後歴代一位となる[22]。
- 2017年(平成29年)
- 2018年(平成30年)
- 2020年(令和2年)
- 2021年(令和3年)